アパートからの引越し
我が家は、東京大学付近のアパートにあった。
かなり個性的な作りをしており
他の一般的な部屋と別に
今で言う「メゾネットタイプ」になる。
アパートに入り、その一般的な部屋勢は
右側の階段を上がっていくけれど
我が家は、左側に玄関となるドアがあった。
左側は、1~2階が我が家で
もしかしたら、
右側の階段で3階からはすべて
一般的な部屋勢のエリアだったかもしれない。
6歳までしかいなかったので
記憶がハッキリしていない。
でもたぶん、そういう造りだった。
玄関ドアを開けて靴を脱ぐ場所がある。
目の前は部屋がひとつ。
右を向くと、2階への階段がある。
とても急な傾斜で、幼稚園に入るまでは
尻もちをつかずに降りたことがないのではないだろうか、
降りれないと泣いては母におんぶされ、
母と尻もちをつきながら降りた記憶が複数ある。
兄も、何度か泣いていたかもしれない。
2階には、記憶では2つ部屋があって、
他には台所やリビング、トイレがあった。
お風呂は、無い。
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本郷のかねやすから湯島天神の方向へ歩くと
銭湯があり、そこに通っていた。
日曜日の夜は、家族で銭湯に行くのが
本当に楽しみだった。
でも、さて、週に何回通っていたのか。
その辺は覚えていないけど
きっと、毎日ではなかったはず。
湯島だけでなく、
菊坂の下にも銭湯があったので
とっかえひっかえ通っていたと思う。
銭湯は、湯上りのフルーツ牛乳と
壊れかけの体重計がふっと浮かぶ。
今はこういった場が少なく
エンターテインメントな温泉が増えてしまった。
昭和のにおいぷんぷんの銭湯があって
通勤でその姿を見る度に
湯島と菊坂下の銭湯を思い出す。
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私と兄は、夜になるとリビングに布団を敷いた。
テレビを観ながらゴロゴロするのは最高で
眠れない時は、兄と、布団を秘密基地に見立て
バスタオルで壁を作り
なにかを叫びながら冒険ごっこをした。
姉は、一番奥に自分の部屋があって
唯一の記憶といえば、
窓の外に大きな蜂の巣があると
姉が大泣きしている場面。
本当にすごく大きな蜂の巣だったから覚えている。
あまり広くはなかったけれど
夜泣きか何かで、台所で父に抱かれ
宇津救命丸を飲まされたことと
母の帰りを待ちつつ
家のいろんなところに隠れて寝たふりをし
母に布団まで運んでもらうのを楽しんでいたことと
台所のシンクのおもちゃとともに
台所のシンクに入れられ
ままごと遊びをしたことや
時々、その最中に、窓の外から姉の友達が
「こたえちゃーん!」と何度も呼ぶので
「わたしのなまえは『たえこ』なのに!」と
窓を開けて憤慨したこと、あとは
小学校の入学式を迎えた兄に母を独り占めされ
玄関で号泣していると
階段の上から仁王立ちした父にうるさいと怒鳴られ
更に泣き嘔吐する私を姉が介抱していた、
ということ以外はあまり覚えていない。
私はすぐ泣くので、みんな大変だっただろう。
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そんなアパートから、引っ越す時がきた。
父が、
アパートから徒歩5分くらいのところにある
中古の一軒家を、キャッシュで購入した。
一括現金払いだ。
引越し屋へ頼むことはせず、
焼鳥屋の仕事を終えた後の時間を使って
母と荷物を運んでいたそうだ。
父と母は他にも色々と、本当にすごい。
母は、家事育児仕事引越し・・・ヘトヘトだったはず。
尊敬しかない。
私に同じ事は、出来ない。
3LDK、風呂つき。
父は酔っ払うと何度も引越しの話をした。
「他にも広くて安い家があったんだ。
でも、ここに決めたのは、風呂があったからだ。
俺は風呂のある家に住むのが夢だった。
ここで初めて風呂に入った時
涙が出るほど、本当に嬉しかったんだよ。」
追い炊きはできず
5人家族なので、水道代は凄かっただろう。
日曜日は父と兄と、
ぎゅうぎゅうになってお風呂に入った。
父がイガイガのタオルをぎゅっと絞って
私の耳を掃除するのはとても嫌だったけれど
父の夢だったお風呂つきの家は
私にとっても夢のような世界だった。
そんな夢の家、
現在、Googleマップで見ると
買い物へゆく母の背中がバッチリ映っている。